昭和42年07月22日 朝の御理解
天地金乃神様のおかげを、生神金光大神様の御信心、生神金光大神様のお取り次によっておかげを受けられるようになった。そこで天地の親神様のおかげを受けるには、勿論金光大神のお取り次が必要なのですが、そこにおかげを受けられる為に、天地の親神様のお心を対していかなければならない、天地の親神様のお心を分からして下さる為に、様々な御理解を下さっており、御教えを下さっております。
と同時に又金光大神の、お心も分からなければいけません。お取り次を下さる金光大神が、どう言う風に天地の親神様のおかげを受ける為に御修業下さり、ご自身が体験を受けられた事を、話にして残しておられるかと云う事を、よく聞かせて貰、よく分からせて貰うて、金光大神の心にも、添い奉るあり方にならなければならないので御座います。天地の親神様の心が分かり、同時に取次者。
金光大神の心が分かる、して行くところに私は、お道の信心のおかげがあるとこう思うのです、例えば皆さんがお参りをされます、お参りをされますと 先ずお賽銭を奉られますですね。それは皆さんどう言う様な気持でお供えなさっておられますか知りませんけれど、あれはね、天地の親神様へのお供えだとおっしゃる。天地の親神様へ心を通わす為の、一つの手段なのです。
ですから是は天満宮様にお参りしましても、八幡様にお参りしましてもどこどこの仏様にお参りしましても、矢張り是が御座いますですね。お釈迦様という言うなら取次者と申しましょうか、それに如来様の対するというのでしょうかね、天満宮様にお参りしましてもそうです、天満宮様のお徳だけでは助からない。その天満宮様なら天満宮様のお徳が天地の親神様に通われてこそ、初めておかげになるので御座いますから。
そのお賽銭というのは所謂お賽銭というのは、お道の金光教の信心だけのものでは御座いませんですね、天地の親神様に通う一つの手段です、だからどうでもお賽銭だけはお供えなさらなければいけませんですね、いやそれはお賽銭に限った事ではありませんね。それは庭の散り葉でもと仰るのですから木の葉一枚でもいい、真心さえ有れば小さい石ころ一つでも自分の是は真心だと思う奉れば、通うと仰るので御座いますが。
それが必要である事が分かります、同時に皆さんがこうしてお初穂をお供えなさいます、是はね金光大神への手土産代わりと仰る、それをも少し云うと矢張り取次者に対する手土産代わりだと。ですから取次者が例えば、皆さんから手土産の一つも頂けれるおかげを頂く為に、矢張り皆さんの信用を私は受けなければいけないとおもう。やあ今晩のお豆腐は美味しかった、親先生に一つこの豆腐を頂いて頂こうね。
今日佃煮を作ったが本当に美味しかった、先生がお好きだから佃煮を持って行こう。これなんかは立派に金光大神のお供えですね。そういう思いそういうものがお初穂、お供えなさるならそういう心そういう内容がなからなければなりません、ほんの僅かな物で御座いますけれども、金光大神へ所謂取次者に対する所の言わば手土産代わりね、お賽銭が天地の親神様へ継ながって行く為の、一つの方法であり手段であります様に。
金光大神へほんとに継ながって行く為に、親先生とほんとに継ながって行く為に、やっぱりそれが必要なんですね。それが真心、それが美しい心を持ってのそれである時に、いよいよその働きが十全になって行く訳です。そこで私共は金光大神の御教えを行じさして頂いて、金光大神のお取り次によって、天地の親神様のおかげが受けられる様になった、だからんならそのお賽銭のお供えをしとるから。
お初穂のお供えをしとるから、それで良いかというとそうではない、それは何処迄も手土産代わりである、手土産を持ってきたから云う通りにして頂くと云う事はないね。それはいうなら金光大神への、まいうなら天地の親神様に対する所の、一つの礼儀である、エチケットなんです、そこんところを、いわゆる金光様の御信心さして頂くものは、エチケットとして知っとかなければいけません。
お初穂お供えしたけんお賽銭ないらんち云う事はありません。どうでもいるのです無い時には木の葉でもいいのです。天地の親神様のおかげを受けられる様になったね。そこで金光大神は何を教えられておるかというと、天地の親神様のお心を説き明かしておられる、金光大神は又御理解にご自身がおかげを受けた事を、理に入って話として残しておって下さっておる。
ですからどうでも金光大神の御信心振りというものを、神ならわして頂くと同時に、天地の親神様の心が分からなければならない、そこにおかげの受けられる道が開けて来る。そこで金光大神は天地の親神様のおかげを受ける為には、どういう風におかげが受けやすくなる、受け良い為にいや本当いうたら、天地の親神様は世界中の氏子に、おかげがやってあると仰られる様に。
もうこの世この宇宙にはそういう天地の親神様の、お恵みと言う物が溢れておる。云うなら人間氏子幸せになって行く為の、幸せの材料と言う物はもう金であろうが物であろうが、全ての物がここにはもう溢れておるね、所謂福寿会無量である無量の、神恩無量のおかげと言う物が限りなくここにはあるのだ、ここにあるのである、皆さんのほんの側にあるのである、ですからそれを手を持って掴み取りが出けるのである。
所が教祖はおかげは受け徳、受け勝と云われる、おかげは受け徳受け勝なんだ、おかげの遠慮をしてはいかんのです。そこでやつぱり遠慮なしに頂ける為にです、日頃金光大神といい その交流天地の親神様の交流が、密になされておかなければならんのです不思議ですね、一生懸命お参りが出けておる、自分の思いの限りを、こう尽くさして頂いておる時には遠慮がないですね。
お願いをするでも、ま私がそれなら下がっとると致しましょうか、まこっちへ入りなさい、ま丁度お昼時ですからご飯でも頂いて行きなさい、時でも皆さん体験はないですか、お茶の一つでも出される時に、もう、いいえいいえて云わにゃおられん時には、なんとはなしにそういう継ながりがない時です、あ先生がああ仰りよるけん、お茶よばれて行きましょ。まあげんいうて頂くからお食事さして頂きましょう。
呼ばれていきましょうそんなもんですよね、皆さんの家も心やすいとこは、こっちからいう位でしょう、ああお腹んすいたお昼いっちょよばれて行こうかち、ああ喉ん乾いたお茶一杯くれんのと云えるでしょう、日頃交流しておる人の家では、又交流しておるひとつの間ではそれが出来るでしょうが、神様との事だってそうですもう日頃は御無礼ばっかりしとりましてから。
お願いのある時ばっかり参りましてから、ていうてから言い訳せんならんね。そこにですね、折角の無尽蔵ていうか限りないおかげの中に、例えばありましてもそれを遠慮してとれんのです、おかげが遠慮なしに頂けれる仲と言う物を、私共と天地の親神様との仲に作っておかなければならん、それこそ神様が場合には、それこそ撫でたり擦ったり、と言う様な状態でおかげを下さる。
場合によっては又、それが厳しゅう親の心情を見せて下さる様な事もある。皆さん金光大神の御信心振りを、神習わして貰うと云う事はですね、天地の親神様との、いよいよ交流を深めて行く事の、一つの手立てなのです。同時に天地の親神様のお心を分かると云う事は、分かれば分かるほど、いよいよ金光大神の、お取り次のおかげというものを、分からなければ居られんのです。
所が私共にはです、いわゆる人間生身の事で御座いますから、何処にお粗末御無礼があるやら分かりません、と云う事に成って来るんですね。交流し続けておる様であるけれども、昨日丁度善導寺の原さん、御主人の方が日に二度づつお参り、朝の御祈念にこうして夫婦で参られる、昼丁度炎天下の暑い盛りを見計らって、ま修業に参って見える訳なんですね。確かにですね。
お参りをして見えればお参りをして見える程、何かが密なる物が私との間に通って行くのですね、そして何かを頂いて帰っておられるという感じなんです、御理解を頂く例えば態度が違うのです目が輝いてくるのです。もう朝一辺参っとるけんそれでよかと言うもんじゃない、と言うてなら昼も夜も参らんならんかと言うとそうじゃない、そうさして貰わなければ居られないと云う心なんです。
昨日も私が丁度ここへ座っとる時の体験をお話させて頂いたら、それこそ目を輝かして先生そうですもんねと云われる、と言うのは私が丁度お参りになったちょっと前に、ちょっとお参りの切れ間があった。もう何か知らんけれども、もう眠くなって来たら途端に体中がこう崩れる様にきつい、眠気が付くそれでもじっと辛抱さして頂いて、あの辛抱と云う事が大事ですよ。
皆さん金光大神の信心を分からして貰う、天地の親神様の心を分からして貰う為にはです、矢張りこの辛抱が大事です信心には辛抱する事が一番大切で御座います。成程体験者はそう語っておられますね三代金光様のお言葉、二代金光様もやっぱり、信心辛抱さえしとれば物事整わん事はないぞと仰っておられる。矢張り体験者はそう語っておられますね、ですからその辛抱の手前で、お互いが挫折する所にです。
いよいよ頂けれるものが頂かれず、分からせて貰う所が、分からせて貰えないのです。ああいう時にちょっと立ってお茶でも頂くとか、ちょっと立って顔ども洗えりゃ、もう立っただけで目が覚めるんですけれども、さあそこが私はここを立たないというのが建前ですから。そこを辛抱する訳なんです、そしたら丁度久留米の佐田さん達が親子三人で参って来た、一番下の五つになります。
五つですかね、幼稚園か保育園に行ってますが、恵介君が、お母さんがあそこで、お初穂のあれをしておる時に、自分だけここへ参って来て。先生僕は是を、お供えさしても頼ますち云うてから、お供えと言うのが、こういうなんですかね、なんか飴玉の様な物を持ってからここへ、お供えするんですよ、いやあこりゃ恵介君のお供えて、懐紙を出してからそれを受けたんです。そしたらしゃっちそれをですね、食べ、食べてくれ食べれと、言う訳なんですよ。
自分のを取ってから、私のそれを取ってから食べさせるんです。いやあどうも有難う有難うち云うてから、その子供と話して飴玉を口に入れた途端にですね、もうほんとに心から目が覚めるんです、やあ ほんとにあの辛抱のちょっと先にはですね。ほんとに小さい子供を騙し好かして、用に使う親の様にですね、こうして御用に使うて下さる時には、ほんとにきつかろう、眠かろうという時もあるけれども。
そういう時にはこちらが騙し好かしして、こちらがその気になれば使うて下さる、そうしてでも。その後に原さんが参って見えたんですから、私その事をですね、有難い事ですよ神様は、こうやって私のような使いにくいものでもね、飴玉ほおばらしてからでも、騙し好かししながら使うて下さる様な事がよう分かりますと、私が申しましたら原さんが云われる事がです、先生そうで御座いますね。
けれどもそれがですね先生、私の心が神様に向かうておらなければ、その働きも働きとして受ける事も出来ませんですね、そうです原さんそうですよと云うた事でした。そういう神様がです、ほんとに撫でたり擦ったり、騙し好かししながら私の機嫌をとっておって下さる様な事でもです、こちらの心が神様に向かうていなかったらです、それを無にしてしまう分からない神様の心が分かると、そこに生まれて来るのは感動。
私の様な者を神様が、この様にして用に使うて下さるのだと云う事なんですね、有難いなまるっきり原さんの為に私ゃ眠かった様に思う。不思議な事があるんですよ。昨日一昨日、久富繁雄さんなんか歯が痛んで晩にお見えにならなかった、毎晩の事ですから久富先生が足を揉ませて頂こう、ひとつも足を揉んで貰う程に、痛くもなからなければどうもないとですよ、却ってこそばいか位ですま折角だから暫く揉んで貰ったけれど。
先生よか早ようしぼって下さい今日(?)いっちょんどうんなかですよち、昨日久富しげおさんが参って見えられてから、見えられたらですね、ほんとに途端というわけではないけれども、擦って貰や気持の良いと言う様にですね、足があるんですけん、こりゃよくよく考えて見るとあなたん為に足がこげんあるごたるばい、て云う様な働きがあるんです。確かにどこ、それはどう云う事になるでしょうか。
私自信もおかげならです、久富繁雄にもおかげ頂かせなきゃやまんという、そういう働きが、私を通してあっておる事が分かるでしょうが、ああ又今夜もお参りせんならんていよる事では、だからいけないと云う事が分かる、私にとっておきの御用なのだ、そこで段々そういう事が分からして頂いてから。それをまそう締め括りますと私の信心は、それをどう言う風に頂いておるかというと。
そういう辛抱し抜かなければ、ならないという事と同時にね、成り行きを大切にして行こう、天地の親神様の、もう働きお声と聞き、姿と見るんだというのです、天地の親神様の働きがですね。そういう働きが私共の上にある、その働きを大事にせずして、神様を大事にしておるとは言われんのであり、尊んでおるとは云えないのであるね。そこでお互いが椛目から合楽にかけて。
皆さんが一生懸命稽古された事は、この成り行きを大事にして行くと云う事なんで御座いますね。そこで又一つ思わなければならん事は、成り行きを大抵大事にさして頂きよる様にありましても、どこに無精進があるやらどこに人間生身のことでありますから、お粗末御無礼がある事やら、天地の親神様のその十全の働きをですね、どこに受け洩らす様な、受け洩らす様な働きが。
受け洩らす様な御無礼、御粗末があるやら分からん所にお詫びの信心がいるのです、ね。そこで私は努力がいるより必要なのが精進であると云う事なんです。私昨日親教会のお月次祭にお参りしようと思いましたら、丁度高橋さんのお父さん達一行が四名連れで見えられました。しかもどうしても私に会いたいと見えられたんですから、私が善導寺に、あ丁度良かった丁度ぐずぐずしておりまして行けませんでした。
丁度何時も関さんが迎えに来て下さいますのに、昨日は見えなかったんです。そんな事で遅れておりましたおかげで、まあお会い出来てゆっくりお話さして貰う事が出けて、それでお参りが夕方になったんですよ、親先生がお結界に奉仕ばしておられませんでしたけれども、夕方であるというのに、やっぱちゃんと紋付袴付けてから控で奉仕しておられました。私はそういう時にですね。
もうそういう時に無条件に親先生の仰る事が、もう抵抗なしに頂けるんです、不思議にですね、一生懸命親先生が精進しておられる時も、ほんとにどう云う事を仰ってもですねあの無条件に頂けれるんです、いわゆる金光大神として頂けれるんです。親先生を所がこっちがあのあまのじゃくが強いもんですから、でない時にはどうも親先生が仰る事が、親先生はそう仰るけれども、と言った様な事になってから。
相済まん事に成って来るので御座いますけれどもです。昨日私のここの教会長問題、又は教会設立問題の事に付いてから、こりゃもう一辺あの隣接教会、それも北野、本郷、田主丸、吉井、この四つの教会に挨拶に行かなければいくまい、そしてその認めて貰うていうですかね、ここに教会が出けるて云う事を承認して、承認して頂くという為に行かなきゃいけん、私が行かにゃいかんのだけれども。
私が忙しいから一日も早うあんたと若先生と二人で行く様に、もう今日にでも明日にでも行く様に、と言う様なお話が御座いました。何時もならですね、何の為に先生行かんならんですか、私ゃ行かんでよ御座いますと そげん迄からと言う様な物があるんですけどもね、けどそういう様に心の状態の上に、おかげを受けとるもんですから、そうですね、ならそういう風にさして頂きましょう、と言うて帰って来られる。
そしてあのバスの停留所まで歩かして頂いたら、もう三十秒早かったら吉井行きのバスに乗れた所ですけれども、皆んなが降りてもう出掛けておる所へ、私が後から勿論走っとれば、丁度間に合うとったでしょう、走る急いどったらそれに乗れたんでしょう、そん時に私はそのバスを、次のバスを待たせて頂く間を思うのですね、はあ、ここんところが精進だなあと云う事を、ね。
あれは利休和尚でしたかね、五合庵といういろりを結ばれて、このいろりには五合以上のお米はおかない、いかに天地の親、天地の親神様とは知らなかったでしょうけれども、天地の中にはですね、もう生かさなければおかんという働きがあるのであり、いわゆる生かされて生きておるのであると云う事を、ようもそこんところの悟りが出けておられた方だと思うんですよ。
余分に求められない五合ありゃええ、自分一人なんだから、だから五合庵という庵を結ばれたね、必要なだけは必要の天地は私に恵んでくれるんだという、確信を持っておられたんでしょうね、だからその句に炊くだけは風が持って来る木の葉かな。そんな句が御座いますねも実に深い句だと思います、いるだけは風がもて来る、炊くだけはもうわざわざ焚物ん拾いは行かんでも。
ちゃぁんと必要なだけは風が、こう吹き寄せてきてくれるんだと云う事なんだ。大変なだから、いうならば、自然主義者であった訳なんです、いわゆる成り行きを大事にして行った人に違いは有りません、そういう意味合いにおいて私も、矢張り成り行きを大事にして行く事と同時に、矢張り自然主義者です 成り行きに逆らわないというのが、私の生き方なのですから。
けれども矢張、り五合庵よりも一升庵、一升庵よりも一斗庵の、おかげを頂きたいのが、実を言ったら私達なんです、又でなからなければいけないと思うのです。私はね、十人の家族を要するよりも、矢張り三十人、五十人の家族を要しても、それが恵まれて出きれる、おかげを頂かなければならん為に、内容をいよいよ、高めて行かなければならんと私は思うのです。
百円のその日暮らしよりも、壱万円のその日暮らしが出ける様な、おかげを頂きたいと、私は願うのですそこにです、私共がほんとに、私共のこのす一万で是で良いのか、是で良いのかという強い反省が必要なんです、そこに例えば私がです、なら善導寺の教会からバス停留所まで悠々と、急ぎもせずに歩いたという事は、是はあまりもの事であった。今バスが来た、バスに乗りたいならば、矢張りちょっと走れば良かったんだ。
ちょっと急げば良かったんだと、云う事に皆さんなるでしょうが。今度教会設立の問題でも、成り行きまかせのやり方ではあるけれども、そういう働きが今迄話も出なかった、例えばここの田主丸、吉井、北野、本郷と言う様な所に、今ですら行った事のないのにです、今の様になって、わざわざ挨拶に廻らんならんと言った様な事は、必要ではなかろう様にあるけれども、そこがちょっと急がにゃならん所であり。
ちょっと足らなければならない所では、力を入れなければならない、いわゆる人間生身の事であるから、どこにお粗末、御無礼があるやら分らん、その補いがそういう形になって現われて来るのだという風に思うのです。皆さんも成り行きを大事にしておられるから、のほほんとしておっちゃいけません。矢張りそこんところの精進が絶えずなされなければ何故か どこにお粗末御無礼があるやら分からんからで御座います。
天地の親神様のおかげを受けられると、金光大神の御信心によって御神徳。お取り次のおかげによって、天地の親神様のおかげを、受けられる様になったんだけれども、そこには天地の親神様の心を心として、金光大神の心を心として、私共はそれを体して行く所の信心、そこに金光大神がです、ご自身が天地の親神様のおかげを受けられる様になった、為にはこういう信心もあるのぞ。
ああいう信心もあるのぞと、どうでもという時にはこういう信心もしなければならんぞ、と云う事を様々に解いておられるので御座いま。一人ででけん時には二人、二人ででけん時には家族中で、愈々いかん時にはここのお広前の会員、信者一同がです、打って一願となって勢信心のおかげを頂けば、一人で持ち上がらぬ石でも、大勢が一時に声を揃えて持ち上げれば、持ち上がる様な道理じゃと仰る。
そういう道を教えておられます自分一人でいかん時には、お前手伝ってくれないかと、それを周囲にでも言える事です。私前に大阪のアベノの御比礼の事、聞かせて貰ったんですけども、朝参りが千人だそうです、大した事ですね、所が成程その聞きよったらですね、成程千人の参りがあるだろうと思うです、というのは、ご承知の様に大阪と言う所は、大きな商社商売人が多い所で御座いましょう。
ですから、何時も金銭に追われたり、手形の為に一生懸命、矢張りそんな苦労がある訳なんです。ですけども殆どが大阪の商人は、そういうおかげの為に、信心しとると言う訳でもないでしょうけれども、そういう願いが多い訳です、ですから今度の手形とても難しか、だから家族は勿論、女中さんであろうが、番頭さんであろうが、朝はまあだ一時間二時間遅うなったっちゃかんまん、店を開けるのは。
だから手伝ってくれと云う事らしいですね。ですから二十人の使用人がおれば、主人を含めて二十人の者がお参りをする訳なんです、これがアベノの教会の、まあ一つの特徴らしいですね、五人家族がおれば五人の家族が参って来るそうです。なるほど一家族から十人の者が参れば、百人の者が参ってくればなるほど、千人のお参りになるんだなあという事が分かるでしょう。
もうその変わりおかげは絶対こう確信しておるそうですね、成程一人で持ち上がらぬ石でも大勢が一時に声を揃えて持ち上げれば、持ち上がる道理だとそういう素晴らしい事を教えておられるのですよ、家内にも頼まにゃいかん、主人にも頼まにゃいかん子供にも使用人にも。そこでほんなら子供やら使用人の、人達は何か分かるかというと金光様の御比礼が分かる、はあ成程金光様ちやおかげ頂けれる神様だなあ。と。
例えば女中時代に一番当時代に思うとるから、女中さんが嫁った先にもやっぱ信心が続ける、番頭さんが自分で店を持つ様になると矢張りその番頭さんが金光様の御信心を続ける、と云う様にして。アベノの教会は、御比礼を頂いておられると云う事で御座います。そう云う事をです、金光大神は教えておられる、おかげの頂けていけれる道を、今日私が申します事もそうなんです。
どこにお粗末御無礼があるやら分からん、ほんとに天地には遍満しているおかげをです、頂けれるんだけれどもです何故遠慮するか、遠慮しなければならないもとがある。何故頂けんのかそこにはこういう精進が必要なので ということを教えて頂いとるので御座いますから、そこんとこをです一つま言うなら水も洩らさんおかげにする為にです、そういう精進がいるのじゃないでしょうかね。
ただ五合庵 唯いるだけは只風がもて来るだけに待たずに場合には焚物ん拾いに行かなければならん、そこにあるのですから。何時までも五合庵で良いという筈はない( ? )なんかは独身家内を持ってない、子供もおらなければ奥さんもないから、それで良かったのでしょうけど、私共は五合庵じゃいかん、一升庵の者は一斗庵のおかげを頂かして、頂けれるおかげを頂く為にもです、私そこんところの精進をいよいよなされていかなければならないと思うですね。
どうぞ。